日中友好の寺、棗(なつめ)寺1000年の歴史を貫くもの
浅草は日本の庶民の顔である。海外からも毎年数百万の観光客が訪れているといわれる。浅草は寺町であり、浅草寺を知らない者はない。その浅草に日中友好の寺として内外に知られる棗(なつめ)寺(運行寺)がある。東京本願寺への通りに連なる、浄土真宗の寺であるが、先代菅原恵慶師は、日中戦争下、祖宗の聖地、山西省玄中寺の跡を訪ね、その廃墟から棗の実を持ち帰り育てた。そして交流のあった横山大観にその若木を写してもらい、棗寺と呼ばれるようになったという。
日中戦争、太平洋戦争中、日本軍によって中国は焼き尽くされた。だがその次は米軍の爆撃によって日本の主要都市が焼き尽くされ、浅草も又焼き尽くされた。
戦後その廃墟の中、菅原師は不滅の平和を目指し行動に立ち上がった。戦時下日本は軍国主義によって完全に支配され、真実は何一つ知らされていなかった。国際的な犯罪として中国人4万人の日本への強制連行があり、その犠牲者は7000人近くに及ぶ。その頂点に日本におけるBC級戦犯裁判として有名になった花岡事件があった。この中国人に対する天人共に許されない犯罪行為が、この日本の地において行われ、それが白日の下にさらされた時の衝撃は、焼け野原にさまよい、明日をも知れない生活状況の中で、新しい日本の再生を目指す道義的思想的よりどころとなった。
1950年頃から、花岡の遺骨発掘、収集運動が日中友好運動の一つの柱、日中友好協会の原点となった。菅原恵慶師は、祖宗の地中国への日本の侵略を最も深刻に受けとめ、まだバラックの焼け跡の寺からその運動に関わり、中国人殉難者慰霊実行委員会の事務局長として献身、1950年から東京に運ばれた花岡を中心とする遺骨をバラックの6畳に安置し、師はその数百の遺骨の前で起居を共にし、供養したという。
1953年6月、第1回の遺骨送還が実現した時、私はそのバラックの6畳間から遺骨を一つ一つ運び出したが、その状況を体験し、崇敬の念に打たれた。それは53年後の今もまざまざと瞼に甦ってくる。
花岡の遺骨送還の40年後、1993年6月30日、北京の抗日戦争紀年館で「花岡悲歌展」が催され参加した。それは1980年代半ばからドイツの戦後補償運動に連なる世界史の潮流の中で、中国人強制連行、花岡事件の新しい運動が展開された成果であった。その時天津の遺骨館でかつて棗寺から運び出した遺骨と対面した。その時40年前棗寺から同行した416人の花岡殉難者の名を記した位牌と対面したのである。
花岡事件の新しい運動は、その後、鹿島に対する裁判闘争に発展し、2000年11月29日鹿島との和解に到達した。
日本の戦後補償運動における空前の成果であった。翌2001年春私達数人はそれまで交流の途絶えていた棗寺を訪れた。私は実に48年ぶりであった。花岡和解の成果を報告し、和解による花岡平和友好基金を元に、花岡に強制連行されたすべての生存者遺族を、大館市の慰霊祭に招待することを話し、その際是非棗寺を訪問し、先代の墓に詣でて感謝の心を伝えたいと申し入れた。
私達の突然の訪問と飛躍した提案を、現住職の菅原均師は即座に受け入れた。師は花岡遺骨送還の48年前を回顧し、遺骨を送還した年にこの寺に修行僧として住み込み、最初の仕事は、位牌に花岡の犠牲者全員の名を書くことであったと語った。学生であった寺の娘と二人で9枚の位牌2組の表裏にびっしりと犠牲者の名を書き記した。1組は遺骨とともに天津に送り届け、そしてもう1組は、棗寺に安置し祖宗と共に朝夕に供養し続けた。位牌の表書きが「病没華人霊牌」となっているのは緊迫した1950年代の状況を示している。とても「殉難烈士」と書ける状況ではなかった。位牌は今先代ご夫婦の法号の軸に抱かれるように本堂に安置され、朝夕に供養されている。
和解の後、2001年以来毎年数十人の生存者遺族を招待し、棗寺を訪れ、菅原師の縁ある御講話をいただき、親しく位牌に接し、そして先代の墓に詣でてきた。それは花岡生存者遺族と、私達日本人の真の和解実現への象徴的なあり方となり、魂をゆり動かす状況を生み出している。その要となっている菅原師は先代の志をついで御布施の類を固く辞され、一度たりとも受領されたことがない。
2003年浅草寺において、日中友好を願う仏教界と民間有志参加による遺骨送還50周年記念法要が行われ、50年来遺骨送還、日中友好に関わった両国先達の物故者の名を挙げて、その遺徳を顕彰し、更に次の50年を目指しこの志を引き継ごうと浅草寺大貫首自ら語られた。
顧みて棗寺の先代が1000年の歴史を超えて中国仏教界、両国人民の友好を希った志は、中国側に於いても玄中寺の再建と、その再建を讃えた記念碑に菅原恵慶師の功績が記され、祖宗の墓とともに師の墓も立派に建てられている。
一菓の棗の種がすくすくと育ったように、棗寺の志は千古であり、両国に生きている。それは又、ここに中国人強制連行の補償運動、日中友好運動に関わったすべての人々の中に生き、そして日中両国人民の中に生き続けるであろう。(参考資料:天津の遺骨と位牌、天津市烈士陵園)
2006年6月4日 町田忠昭